昭和五十四年八月二十一日  朝の御理解


   御理解第八十一節
   「氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならぬぞ
    十里を登り切って向こうへ降りたらそれで安心ぢゃ
    気を緩めると直に後へもどるぞ」


十里の坂を登り切る、と 云う事はどういう事だろうか。
向こうへ降りたら安心とおっしゃる いう これは神様が安心して下さる事だろうと思うですね。
もうあの氏子は大丈夫と、神様から あの氏子は大丈夫と云われるところまでの信心を進めて行きたい、
私は信心頂くと、稽古さしてもらうと もう本当に信心の、いわゆる稽古をしよう、頂こうと云う事になったら 信心が楽しうなって有難うなって、そしてそれが愉快にまでなれれる道が説かれてあられますので、そこまで行った時が私は神様が安心して下さるのぢゃなかろうか、リズムなしにはやって行かれません。
リズムに乗っとらねば生活が出来ないと、もうリズムも何もない
もう無茶苦茶に只 生活をしておるという事ではなくて、信心も
やはり 本当におかげを頂く、ということは ね、
信心を頂くから おかげを頂いたのである。
信心を頂くから 有り難いのである、楽しいのである。
只、ご利益を頂く、おかげを頂くという事は 有り難いようであって それは段々うすくなってゆくもの、だから あれだけの
一生懸命の信心をして あれだけの おかげを頂かれたのだから
もうあれは大丈夫 と云う事ではないと思う。
そういう信心が身につくと、ためには 本気でね、修業しようと云う、云ならば信心修業をしようと、云う気にならなければいけない昨日は桜井武志君が 初めて此処で正奉仕の御用を頂きました。
一日の彼の行動 というか、御用ぶりを見ておりますと もう本当に心を使っておる。もうお届け帖なんか みてみるとキチッと正確に、お届けをしてある、日誌を毎日最後につけますが
日誌なんかでも 見事に一日の修業の事を書いてります。
これが段々慣れてくると もう簡単に もう書く事なか、という事書いとるし、と いうのがあるですね。
もうお届け帖でも乱雑にもう これ以上はくずされまい というごたる字で簡単に、だからそれがね、向こうへ降りてからの、神様が安心して下さる程しのものが出来てからの それならば かまいません。信心が血になり、肉になってからの そけならば かまいません。例えばお茶の稽古なんかを なさる人達が、手前を一つ間違っても、前へは進まれません、進まれないです。
ちゃんと 順序 というのがある。
その順序を一つ間違えたりすると、先に進まれない。
それをいうならば まづは正式に体得しなければならない。
信心も同じ、本当に楷書で まあ 面倒臭いごたるけれども楷書で書かして頂くような信心。
それこそ一手前でも 思い出し思い出しして もう良いから、ええと ここはどういうふうに覚えて、それが自分のものになってしまってから、自分の血肉になってしまってからならば、
私の茶室に私は びょうぶに 苦茶無茶と書いとる、だからその
苦茶無茶ということは、無茶苦茶という事なんですけれども、
苦しい茶、苦しいお茶の修業として 一切を体得して、そしてそれが無茶という事になっとるならば、そこにはお茶の精神というものが、生き通しに息づいて、いる事になる。
それとね、うすらぱっと稽古をしとって頂こうとした分では
無茶だとしか頂かれん、だから苦茶がまず先なんだ。
苦しい茶の修業が まず きちっとするという事が まず修業であって その向うに無茶があっても それは無茶ではない。ね、
もう いうならば名人達人の境というのが そこにはあるわけです名人達人 というと大変難しいけれども、信心は、私は今申しますように、信心が楽しうなり 有難うなり リズムにのった信心生活が出来るような、おかげを頂こうと いうような精進をするならばです、本当にもう素晴らしい信心の有り難さ というものが身についてくる。ところが仲仲、その稽古をしませんですね。
何十年信心しておっても、その稽古をせんなりに 只、いうならば苦茶無茶ではなくて いうなら無茶苦茶になってしまう。
自分はもう何十年の信者で 安易というような事になってしまっていつも神様に不安をかけ心配をかけておるから、自分も又 不安であり、心配は切れない というような事になるのです。
私は今日御神前で食卓に、沢山の調味料がいろいろ置いてある。
ソ-スから酢から醤油から それから味の素からマヨネ-ズから、もう沢山並べてある、あまり並べてあるから もうせからしか、
もうお茶づけで なあにんかけずに食べようと いうような感じなんです、私も食事の時には いろいろ沢山調味料が置いてありますそれには辛いものから 苦い物まであります それで此処には、にがいもの ここには辛いもの、此処には日本の物より、あちらの
ソ-スの方が良い、これにはマヨネ-ズの方が良い、と いわゆる味わい、というものを、ちゃんと見極めて知っておる いうなら
自分の舌が知っておると、それは面倒くさい事ではない。
もうこれには これをかけてならば これにはこれ、あんまり沢山あるもんですから どれをかけてやら分らん。
もう何も掛けんなりに食べよると 言った様な 私は信心者が多いのではなかろう かと思うのです。
もう此処の、私がいつも例に話します 久保山さん なんかもう、毎日毎日が、今日も成行を大事にさせて下さい、と本気でそれを云うておられる、だから翌日はそれが素晴らしい体験になって来て居る、成程 苦しい事もある、成行を大切にする事は 大変損になるような事もあるけれども それを頂くぬく向こうの方に 信心の味わいが分かってきておられる、という感じなんです。ね、
ですから、あれもこれも と 云う事はいらんから、一つ一つを体得する、覚えて行く、という 生き方、そこから 味わいが頂けてくる、そして何の為にそんなに沢山の調味料があるか、と、ね、
いろんな食物に それは それでなくてはいかん、それにはそれが一番美味しい、という いわば味をつける調味料が そこにあるのだから、それを全部使い分けが出けて、頂きこなしが出来る様に
段々ならせて頂いての、合楽の場合にはそれこそ もう、あらゆる角度からの調味料が用意してあります。
あまりにもそれが 調味料が沢山あるもんですから どれをかけてよいやら分らん、そして結局は かけんなり、まあ たまには醤油が良いとこに ソ-スを掛ける と云う事になったりしかねない様な生き方ではなかろうか。
在るお茶の名人と云われた方が、その日も托鉢に出られた。
お坊さんだったんですね、そして 帰って来られたら お客さんが見えておった、それで托鉢の時に持って行く丼の様なのがございますね、で その丼で まずは手を洗って、それからそれをきれいにゆすぎ上げて そして その托鉢に持って回る丼のようなもので
お茶を立てて献じられた、お客さんに出された。
それをお客さんは知ってもおるし、見ておるわけ、もし これが
普通の者が手を洗って それでお茶を出されたら飲めないでしょうけれども、手を洗うその事すらも、お茶の手前である。
そこに いうなら きたならしさを感じさせなかったという。
さすがに 名人だな と 感心した という話がありますように
はじめて 苦茶無茶である 無茶の様であるけれども無茶ではないそれは苦しい茶というものが、前おきに出来ておいてのそれである禰、勿論 お茶碗があれば いうならばお茶碗がない
托鉢に出られるぐらいだから、だからその托鉢に持って回られるのは、自分の御飯茶碗にもなりゃ、自分の手洗うとにもなりゃ、
お客さんが見えた時のお茶碗代わりにもなる、と いう事、
それで きたならしさを感じさせなかった、という それと、私は茶室に書いとりますのは そういう意味の事を、苦茶無茶と、
信心もです、その苦茶無茶が出来るくらいな、そうなったら もう安心、どこで手を抜いておるようであっても それがキチッと、
答えは有り難い、という それになっておる。
私は 本気でね、合楽で信心を頂こう、おかげを頂こう、も あるけれども、信心を頂こう という信心が日々なされて、日々の御理解が その日一日を成行を大切にする、というてもです。
その成り行きを大切にする その在り方が今日の御理解に基づいての それなんです。ですから素晴らしいんです。
だからもう限りがない、キリがない、そのキリがない その有り難さに ふれていけれる信心、そういう信心を極めた時に いうなら頂上を極めそして向こうへ降りた時ぢゃないでしょうか。
もう一点前でも間違うなら 先へ進まれない、と いうところを
通ってその向こうにです、いうならば自由無碍の信心、
そういう信心を身につける事の稽古をね、
本気でしょう、と いう気にならんと、ね、私共は もう長い間
山本さんのお茶を 毎朝、私はお薄(うす)二服づつ、高橋さん、繁雄さん、家内と必ず頂きます。
もう毎日この人ばかりはもう それこそ作法の事でも、ひと事でもおろそかにされません、みな片付けて帰られる時でも、チャッと
その、お茶の点前を以ってなされます。だから私共がお茶を覚えよう と思うなら もう長年の事ですからね。
もう いつの事 覚えとらんならんけれども、覚えようという気がサラサラ ないもんだから分らん、
皆さん 合楽に十五年参っとる 二十年参っとる、と いうてもですね、覚えようと いう気にならなければね、覚えるものぢゃありませんよ、そして あ、あそこは違うた、あそこは間違っとると、云うような事は分かるです。けど自分に茶せんを持ってする事をせろ、というても では できません。恐らく家内も高橋さんも繁雄さんも もう、充分覚えよう と いう気があったら 覚えとらんならんのだけれども 覚えておらん と思うです。
そりゃ もう素晴らしい点前をなさいます。
もう 只、お茶を飲みさえすりゃよいぢゃない、差し上げさえすりゃよいぢゃない、そりゃキチッ とした事です。
それでも 目の覚えという事がありますけどね、只、見ておるだけでは、覚えようと いう気があるから 目の覚えが出来るんです。信心もそうです、御理解を何年頂き続けておっても です。
それを稽古しようと いう気がなかったら いつまでたっても身につきません、いわゆる 血、肉 になりません。
一言でもよいから おかげを頂いて 食卓の上にあるらゆる調味料と いうものを使って使い分けが出来るように また使いこなしが出来る、いうならば 味わいが分かるような信心を頂きたい。
そういう信心を目指す事が私は、信心の稽古であり 頂上を極めた時であり、向うへ降りたら、と いうのはもう 一つの名人芸、
いうなら無茶ではない、苦茶無茶 と いうような信心が身についた時、それこそ 自由無碍な心の状態、自由無碍なおかげの世界にもまた住める事にも、なるのですよ ね。  「どうぞ」